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【第6回】青森県教育改革有識者会議実施内容まとめ

2023年10月25日に第6回青森県教育改革有識者会議が開催されました。本会議では、特別委員の工藤勇一先生(横浜創英中学・高等学校校長)にご講演をいただき、その後、委員による議論がなされました。

▼第6回会議はこちらの動画でご覧いただけます▼

開会(議長 大谷真樹)

青森県教育改革有識者会議で議論を重ねる中で、対症療法の改革にしてはいけないということを強く感じています。今、求められていることは、教育の本来の目的やパーパス、最上位概念から考えて、必要な施策を行っていくことです。手段の目的化を防ぎ、本質的な改革を進めていくために、今回は横浜創英中学・高等学校校長の工藤勇一先生から、「学校教育が目指すべきこと」と「それを実現するための取り組み」についてお話をいただきます。

特別委員・工藤勇一先生(横浜創英中学・高等学校校長)ご講演

プロフィール
横浜創英中学・高等学校 校長。1960年山形県鶴岡市生まれ。東京理科大学理学部応用数学科卒。山形県公立中学校教員、東京都公立中学校教員、東京都教育委員会、目黒区教育委員会、新宿区教育委員会教育指導課長などを経て、2014年から2020年3月まで千代田区立麴町中学校校長に。著書は『学校の「当たり前」をやめた。生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革』(時事通信出版局)、『考える。動く。自由になる。15歳からの人生戦略』(実務教育出版)など多数。

はじめに

今回の講演では、「これからの学校教育が目指すべきもの」をメインテーマとし、サブタイトルを「主体性と当事者性」と設定し、お話をさせていただきます。現代社会、そして学校において最も足りないものが、この主体性と当事者性だと考えています。

日本の学校教育は、「はじめのボタンの掛け違い」をしていると考えています。いじめの問題も不登校の問題も、働き方改革の問題も、実は全ての問題はこの掛け違いに起因しています。

僕が横浜創英中学校・高校の校長になって4年目となりました。4年前までは、従来型の教育を行う日本のどこにでもある一般的な私立中高でした。中学校は20年程前に立ち上がり、1学年2学級でしたが、毎年定員割れを起こしていました。高校は84年の歴史があり、1学年が12学級ほど。定員割れは起こしていませんでしたが、県立を第一志望にしていたけれど、うまくいかなかった生徒たちが入学する併願校としての位置付けでした。実に8割が第二志望で入学してきた生徒でした。

基本的には手取り足取り指導することを重視しており、7時間目までみっちり授業し、進学実績を上げるためにさまざまな支援をしている学校だったと感じています。また、部活動もとても熱心に行われていました。

この4年間で、こうしたサービス提供型の学校構造を改めて、「子どもが主体の学び」「生徒主体の学校運営」(エージェンシー)に変えていく方針に大きく転換。さらに、社会と接続する実学中心の学びを重視しました。先に結果から申し上げると、手厚い支援をやめたので、学ぶ時間は劇的に減っています。しかし、子どもたちの意欲は上がっている。その改革が評価され、 現在は、高校においては第1志望の生徒が5割を超えるようになりました。さらに、中学校は定員を2クラスから4クラスに増やして募集し、1都3県の私立中学校受験倍率のベスト10に入っています。まだ改革途中ではありますが、サービス提供型の教育を改めた結果、これだけ評価いただくに至っています。

僕は千代田区立麹町中学校で6年間校長をし、「宿題をなくした」「担任制をやめた」「校則をほぼゼロにした」「数学の授業においては一斉指導をやめた」などをメディアで取り上げていただきました。しかし、メディアに出ているのは取り組みのごく一部で、実際は400から500の改善項目が出されていました。そして、そのどれもがトップダウンで提示したものではありません。メディアをご覧になって、僕のトップダウンで学校が変わったのではないかと思っている方もいらっしゃいますが、全くそんなことはないのです。

重要なことは、教員も子どもも保護者も主体的に、当事者として 学校運営をしていくことです。麹町中学校でも横浜創英中学校・高校でも、多様な考え方の人たちが集まって、最上位概念に立ち返りながら、「より良い方法は何なのか」を検討・実行していきました。もっというと、多様な人たちが対話をして合意することができなければ、学校改革は全く前進しません。今回は、こうした私の経験を交え、下記の流れで学校教育改革について紐解いていきたいと思います。

社会の変化と教育のあるべき姿

教育と社会は地続きです。そこで、まずは日本を取り巻く社会環境から整理していきましょう。改めてお伝えすることではないかもしれませんが、日本はデジタル化に遅れを取ってしまい、先進国の中では最低レベルです。今後、AIの導入にも遅れてしまった場合には、さらに世界での競争力を失っていく危険性があります。また、30年間にわたり物価も賃金も上がってこなかった日本に対して、諸外国では軒並み上昇。スイスに目を向けると、最低賃金が3700円となっています。

日本は歴史上初めて経験する急激な人口減少期を迎えています。ここにきて、明治維新から約130年間続いてきた急激な人口増加のツケが回ってきているといえるかもしれません。人口がどんどん増えれば、必然的に国内消費が膨らみ、モノは作れば作るだけ売れるようになります。買う人が増えれば、モノの値段は高く設定でき、賃金も上がる。つまり、放っておいても経済が成長していきます。また、この時代において、一気に学歴社会へとつき進みました。資格を取ったり有名大学を卒業したりして就職すれば、その後は経済成長に乗り、定年退職まで働き続けていくことができました。

しかし、2004年を境に急激な転換が訪れます。現在の日本は、人口が毎年80万人ずつ減少しています。ちなみに、80万人とは山梨県の人口とほぼ同じです。さらに高齢化も進行。地方部は特にそれが顕著に現れており、商売が成り立たない状態に陥っています。

「一度就職したら安泰」どころか、現在はどんな大企業でさえも、 例えばAIの導入に遅れてしまったら立ち行かなくなる、といったリスクを抱えています。つまり、我々は従来型の進路指導では成り立たなくなってきているということを認識しなければなりません。現在の子どもたちは、就職して定年まで勤め上げるということはまずあり得ない時代を生きていきます。自分で会社を起こしたり、転職したり、いくつもの仕事を兼業したりし、自分の技能を常に磨き続けて、自分の頭で考え、オリジナルな価値を生んでいくーーそういった人材が求められるようになっているのです。

日本における急激な人口減少

人口が極端に増えた時代から極端に減っていく時代への転換とは、税収の大きな変動も意味しています。その変化を乗り越えていくには、政治や経済の構造転換が必須です。この構造転換は、当然痛みを伴います。 日本社会を支えていくには、この変革の痛みを、上位の目標のために覚悟ができ、対話をしながら適切な方法を探れる力が不可欠です。

しかし、その未来を支える若者の「国や社会に対する意識」はあまりにもひどい状況です。18歳を対象にした調査によると、「自分を大人だと思う」(29.1%)、「自分は責任ある社会の一員だと思う」(44.8%)、「自分で国や社会を変えられると思う」(18.3%)などの項目は、諸外国の中で軒並み最下位です。現在の日本は、当事者意識が欠如し、 さらに自己肯定感も幸福度もとても低い国となっています。

「国や社会に対する意識」から見える当事者性の低さ
低い自己肯定感
低い幸福度

最大の問題点は「手段の目的化」

こうした調査からは、教育において最も大事なことをこの30年間で失い続けてきた結果ではないかと考えざるを得ません。そして、僕は、その教育において最も重要なことが主体性であり、当事者意識であると考えています。

幼児教育からボタンの掛け違いは起きています。多くの人が早期に質の高い教育をしたいと考え、手をかけて、「あれをしろ、これをしろ」「あれをするな、これをするな」と子どもに言い続けます。そうすると、大人のいうことを聞こうとする子どもたちができ上がります。自分の考えに基づいて行動することよりも、親のいうことや先生のいうことを聞くのが「いい子だ」と勘違いしていくのです。

大人のいうことを聞くことを重視して育った子は、うまくいかないことがあると、人のせいにするようになります。例えば、勉強がわからなければ「先生の教え方が悪い」となりますし、クラスがうまくいかなければ「担任が外れだった」と言うようになります。家庭では、朝起きられないのを心配して保護者が起こしにいくと、迷惑そうにしたりする。

講演をすると、よく「主体性がない子にはどう対応していけばいいんですか」という質問を受けます。これこそが大きな勘違いで、生まれた時に主体性がない子は1人もいません。生まれた時には放っておいたって、泣いたり触ったりハイハイしたり何かを話したりしています。そうした主体性を、現在の教育ではチリチリと削ぎ落としているのです。

ヨーロッパの教育には、「教育とは、生まれ持った主体性を失わせないことだ」という精神があります。特に幼児教育の最も重要なことはそこにあるとされている。一方の日本では、教育がサービス産業となり、子どもの先回りをして支援する状況が生み出されています。

教育の”目的”は、「生きる力」の育成です。すなわち、自分で考えて自分で行動する自律した生徒へと成長させていくことであるはずです。その目的を達成するために、基礎学力である知育(確かな学力)・徳育(豊かな人間性)・体育(体力・健康)を身につける”手段”が存在するのです。

しかし、日本各地の教育委員会の目標を見ていると、第一に「知徳体のバランスよい育成」と書かれています。その後に、「主体的に学ぶ子どもの育成」といった項目が続いている。これこそが、 教育を誤った捉え方をしている象徴です。つまり、主体性の方が「知徳体」よりも上位概念であるということを忘れてしまっているということです。主体性を失わずに「知徳体」を身につけることが目標なのに、本来手段であったはずの「知徳体」を身につけることが目的化してしまっていることが、多くの日本の学校で起きている問題なのです。

麹町中学校で宿題をなくした時、生徒たちはみんな喜びました。不安になったのは、中1の保護者でした。逆に大喜びしたのが、中3の保護者です。ここで、「宿題を出す」ということが、どんな意味をもたらすのかを改めて考えてみましょう。

例えば、数学でプリントが配られて、「この20問を解いてきましょう」という宿題が出されたとします。ある子は、問18・19の2問だけがわからなかったので、問18はよく調べて記入し、問19は調べてもわからなかったので人に聞いた正解を書きました。この子が学習熱心な子に見えるのが日本的な視点です。

ヨーロッパの中には、宿題を出してはいけないと規定している国もあるそうです。宿題を出されれば、子どもたちは宿題を提出することが目的になります。特に日本の仕組みの中では、「調査書が悪くならないように、宿題を提出しなければいけない」と考えるようになりがちです。そうすると、わからないところを飛ばしてでもとりあえず提出するという行動をとるようになります。

学校の先生たちは、「学習習慣が大事」という言葉を信じきっています。学習習慣があれば、学力が上がると勘違いしているのではないかと僕は思うのです。学力をつけるために本当に必要なこととは、「わからないところを勉強すること」ですよね。しかし、宿題を続けていると、わかるところだけに手つけて、わからないところは飛ばして提出することが身に付きます。その結果、時間だけが奪われて、学力は上がりません。つまり、日本の宿題は自律的な学習を失う典型的な仕組みなのです。

改めて、日本の社会に目を向けてみましょう。日本は労働生産性の低さが指摘され続けてきました。人口が極端に減っていく中で、労働生産性を上げていくことは急務です。しかし、学校教育では生産性を上げることとは真逆のことを行っているように思います。いまだに学校では家庭学習時間調査をし、「勉強時間が足りない」と子どもたちを指導し、その言葉を聞いて親たちが焦るという負のスパイラルが起きています。自分に必要のない宿題をこなして勉強時間を増やしていった生徒たちは、果たしてどのように成長していくのでしょうか。

麹町中学校で宿題をなくした時に中3の保護者が喜んだのは、「やっと宿題から解放されて、受験勉強ができる」という思いがあったからです。翻れば、それまでは自分には必要ないとわかっている宿題さえもこなすことが求められてきたわけです。厳しい言い方をすれば、日本の労働生産性が上がらない原因を学校教育が作りあげているともいえるのではないか、と僕は思っています。

日本の低い労働生産性

日本は、国が「何を教えて(カリキュラム)」「どう教えるか(教え方)」を一律化し、サービス提供型で教育を行ってきました。様々な子どもたちがいて、習熟が随分違うのにこれを一律に一斉授業で教育しようとしてきました。この歪みによって生まれた象徴的なことが、「小1プロブレム」です。ちなみに、ヨーロッパには、「小1プロブレム」という概念そのものがないそうです。小学校1年生が、椅子に座っていられないことや立ち歩きをすること、好き勝手に行動することは「当然だ」と考えているからです。だから、授業では寝転がっている子もいれば、走り回っている子もいます。

「小1プロブレム」という言葉が広がって大変な思いをしたのは、小学校1年生の担任の先生ではないでしょうか。 自分のクラスの子どもたちが自由に走り回ったり、座っていられなかったりすると、「指導力がない」とされるからです。幼稚園や保育園でも同様のことがいえます。そのため、子どもが本来持っている主体性を生かしていくのではなく、主体性を削いででも社会性を重視にしていくような教育が広がっていきました。

フィンランドでは、40年〜50年前に教育改革をスタートしました。 当時のフィンランドは、詰め込み教育で一斉授業を実施する、現在の日本の教育とあまり変わらない状況だったそうです。フィンランドの教育改革では、学ぶ側の立場から「何を学んで、どう学ぶか」を選べるようにしていきました。具体的にいえば、飛び級ができたり、学び方も多様な中から選択できたりします。

学び方を選べれば、一律に学ぶよりも子どもたちはずっと主体的に自身の力を伸ばしていくことができます。例えば、読み書きが苦手な子どもはヨーロッパの調査では大体5人に1人ほどの割合でいるといわれています。下記のノートを書いた男の子もその一人。小学校5年生ですが、一つの授業でノートに取れたのはたった2行。心が折れてしまっている子に対し、先生はよかれと思って「ノートをきれいに取りなさい」と指導し続けます。相対評価から絶対評価に移行し、「関心・意欲・態度」で評価するようになった際に、先生たちはノートや宿題を提出させて、それを基に評価をしようと考えるようになりました。そのため、こうした子たちは一層追い詰められるに至ります。

検査の結果、この子はディスレクシア(読み書き障がい)だということがわかりました。話し合った結果、この子はパソコンでノートを取っていくということになりました。すると、鉛筆でノートに書くよりもずっとスピーディに綺麗に書けることがわかったのです。そして半年後、この子のノートはこう変わりました。

欧米は「将来どんな姿でこの子が学ぶのか」から逆算して、学校でも個々に応じた学び方をしていきます。一方で、日本は学校に適応させようとする傾向が強い。最近よく耳にする個別最適化とは、教員がアセスメントをして教育を提供していくものではなく、学習者が学び方や内容を決めていくアプローチであるはずなのです。

対立を対話で解決するスキル

これからの時代はいうまでもなくダイバーシティの社会です。多様性とは素敵なことばかりではありません。踏まえておくべきことは、当たり前のように対立が起こるということです。日本の文化は「心を一つに」や「気持ちを同じくして」といった表現に象徴されるように、同一性や同調圧力が強い。日本は対立が起こらないようにするという心の教育や、起こった時に心の問題で解決しようとするとても乱暴な国だと僕は思っています。こうした概念は世界では通用しません。「心が一つになるわけがないでしょ。思想信条は自由ですよね」といわれてしまいます。

対話で解決することについて、日本の学校教育ではこれまでほとんど言語化されたことがありませんでした。僕はそれをきちんと言語化する必要があると考えています。子どもたちに「僕の自由と、あなたの自由は違いますよね。ということは、お互いの自由は成り立たない。だから、人間は何万年も昔からずっと戦争を続けてきた過去があるんだね」と伝えます。しかし、現在、「持続可能な社会になる」という方向性が示されて、その考えの下に平和を作っていこうという時代が到来しています。

こうした考えに転換するきっかけをヨーロッパに与えたのが、第2次世界大戦でしょう。当時の世界人口は20億人をちょっと超えたぐらいだったといわれていますが、この戦争で8000万人以上の方に被害が出ました。テクノロジーの進化により戦争の方法が変わり、これまでの戦争とは比べ物にならないくらいの甚大な被害が出たのです。この科学技術の進化を恐れたのが、地続きで他国と接するヨーロッパの方々なのだと思います。そして、ヨーロッパの教育は大きく転換します。科学技術が進歩して戦争による殺戮の規模が一層大きくれば、人類は滅びる可能性があると考えたからです。

そこで誕生したのが市民教育です。「自国だけよければいい」のではなく、他の国々も含めて平和になるためには新たな教育が必要であると考えて作られていきました。一方で日本は、この課題を心の教育という文脈で埋めていこうとした。心の教育と市民教育との大きな違いは、理性と感情を切り分けて、理性的に物事を考えていかなければ平和はやってこないという前提に立っていることです。

繰り返しになりますが、人はそれぞれ異なるので対立が起こるのは当前です。僕は対立が起こった時に、この対立を大きく3つに分けてみようと生徒に伝えています。1つ目は、感情(気持ち)や感性(好き嫌い)による対立。2つ目は、利害による対立。そして、3つ目が最も重要で考え方や価値観による対立です。

物事を決める際に、考え方・価値観が衝突した場合、その考え方を変えないと握手ができません。それを邪魔するものは、感情です。戦争を例に挙げればわかりやすいですが、自分の家族や身近な人々が殺されれば、相手に対して恨みを抱くようになります。しかし、平和を維持するためには、その感情をきちんとコントロールしなければいけません。そこでポイントとなるのが、利害です。戦争の場合、みんなの最上位目標は究極的には「平和」であるはずです。平和を勝ち取るためには、恨みや憎しみの感情をコントロールし、考え方を変え、 利益を見出して握手をすることが求められます。

こうした対立を超えて握手する方法は、子どもの頃からきちんと学んでいくことが重要です。そこで、ここでは学校現場にとって身近な例を挙げてお話をしていきます。

【生徒間トラブルへの生徒指導の考え方】
A君とB君がある日殴り合いの喧嘩をしました。その知らせを聞いて、先生が止めに入り、A君とB君をそれぞれ別室に連れて行き、なぜそうなったのか経緯を聞いていきました。B君は、「A君は入学以来ずっと僕に嫌がらせをしてくる。それで、今日は思わず、頭にきて手が出ちゃいました」と言います。一方でA君に聞き取りをすると、「B君は本当に嫌なやつで、今日はいきなり殴りかかってきたら、俺は殴り返しただけだよ」と言います。さらに、「入学以来、B君はいつも自分勝手で、自己中心的に動いて迷惑をかけている。掃除の時も行事の時もB君だけがいうことを聞かない。ちょっとからかわれると、すぐにパニックになって暴れまくるし。自分の好きな教科の時には勝手な質問をして、しかも自分の答えが間違っているとまたもパニックになる。先生だって、B君が困ったやつだということは知っているでしょう? 俺はいつもクラスの代表で注意しているんですよ」と続けます。

こうした対立が学校で発生すると、先生たちはA君とB君に仲直りをさせようと、B君には「殴ったことは謝ろう」と促し、A君には「殴られたから殴り返したという理屈はわかるけれど、他にも注意の仕方はあるからさ。仲直りしよう」と伝えます。そして、その場をおさめて自宅に帰すと、保護者から電話がかかってきます。

B君の保護者には、「うちの子は発達障がいだと事前に説明したじゃないですか。みんなと一緒に行動をするのがとても苦手なんです。それに、いつもうちの子はからかわれて、馬鹿にされ続けているんですよ」と言われます。A君の保護者からは、「うちの子は殴られたから殴り返しただけですよね。いつもみんなの代表で注意しているのに、なんでうちの子が謝らなければいけないんですか」と詰め寄られます。

先生方は間に入って仲直りをさせようとしているのに、なぜ「学校の指導が悪い」と言われなければいけないのでしょうか。それは、学校が警察署になって、あるいは裁判所になって、対立を解決しようと考えているからだ僕は思います。ここにこそ、我々が続けてきた勘違いが現れている。確かに学校は、生徒同士の対立の解決を援助しなければいけません。 その援助をすることが教育なのに、いつの間にか解決するのが日本の学校教育の役割だと勘違いしてしまった。ここに問題の根本があります。

この背景には、「子どもの対立を解消するのが大人の役割」と理解されてしまっている日本の状況があると思います。幼児期に子ども同士を遊ばせていると、保護者同士で「Cちゃんにこのおもちゃ貸してあげたら?」「ほら、Dちゃんありがとうは?」といった会話がなされます。欧米では子ども同士が遊んでいても放ったらかしです。そして、DちゃんがCちゃんのおもちゃを奪って喧嘩になったとしても、そのままにします。そうすると、翌日、同じ砂場で昨日のことを覚えているCちゃんはDちゃんに頑なにおもちゃを貸さないというようなことが生じます。こうして、Dちゃんは他者とどう付き合っていけばいいのか、という社会性を体験的に身につけていくのです。

子どもたちが親や先生がトラブルを解消してくれるものだと思って成長していけば、意に沿わないことが起きると「あれ、なんとかしてよ」「あの子、どうにかしてよ」と大人に要求するようになります。幼児期のうちに対立の解消の術を身につけることができずに学齢が上がっていけば、その分リハビリがとても大変になります。

本校の教員たちは保護者に、「殴り合いを始めたら、僕らは止めに入ることはできます。でも、殴り合いそのものが始まらないようにすることは、僕らにはできません。これができるのは本人だけです」と伝えます。

実際に生徒間でトラブルが起きた際には、喧嘩を止めてから、「B君の気持ちはわかったし、許さないという思いもあるよね。A君が大嫌いなんでしょ、それもわかったよ。でも、 1つだけ質問させて。明日から殴り合いの続きをしたい?」と質問します。B君は「嫌に決まっているじゃないですか!」と言います。別室にいるA君にも同じ質問をすると、「当然、嫌に決まっている!」と言うわけです。それで、2人に「おもしろいね、A君(B君)も同じことを言っていたよ」と伝えます。それで、「君らは明日から殴り合いはしたくないということでは一致しているんだね。でも、許せない気持ちはある。いいかい、 殴り合いを止められるのは君しかい。どうしようか?」と話すのです。

すると、生徒たちは対話をするリスクと、対話をしなかった場合のリスクを考えて、次なるアクションを決定しようとし始めます。もう殴り合いをしたくないということで合意さえできれば、それを実現するための手段は自分たちで決めていくしかないのだということを自覚していくのです。それを確認した上で、「僕らが話し合いの場を作ってあげることはできるけれど、どうする?」と伝え、子ども同士が主体的に対話をしていくようにします。

教員たちがこうしたことを教えられるようになると、職員室の様子も変わっていきます。同一性の高い日本の職員室では、意見が違うと、とても感情的になる教員たちが多いことは僕も経験上よく知っています。しかし、どちらの教員も良かれと思って主張しているものです。必要なことは、最上位の目標について合意して、それを実現するための手段としてどちらが適切かを対話することです。すると、一見、二項対立に見えていたものが、本当は対立していなかったといったことに教員たちが気がついていきます。この最上位概念で握手ができるようになれば、物事が進んでいくようになります。

こうやって育った子どもたちが増えれば、社会は成熟していきます。ですから、僕は、「世の中が変わって学校が変わるのではない。学校教育で対話し合意できる子どもたちを育てていけば、政治の世界も含めて、どんどん社会は成熟していくことができる」と伝えています。

それを阻んでいる問題点は、具体的に挙げると2つあると思っています。1つは、先ほどお伝えした「心を一つに」という考え方です。僕らに求められるのは「心を同一にしよう」と指導することではなく、「人の心は違う。だから、仲良くするのは難しい。大人でも簡単じゃない。仲良くするためには訓練が必要だし、 相手のことを知らなければいけない」ということを伝えていくことです。

もう1つの問題点は多数決です。ヨーロッパの市民教育では、多数決は可能な限り使いません。なぜかというと、多数決はマイノリティを切り捨てる決定方法だからです。多数決をして、「みんなで決めたんだから、みんなで守ろうね」と言う日本の先生はとても乱暴です。その乱暴な教育が今、日本中で行われている。日本は民主主義を議会制民主主義と勘違いして、多数決を公平な仕組みだと思い込んでしまいました。本来、多数決を使ってもいいタイミングは、「全員がa案でもb案でもどちらでもいい時だけ」です。こうしたきちんとした民主主義を教え、学校の風土として根付かせていくと、職員室での対立もなくなります。

僕は二大教育目標とは、
・生まれた時の主体性を失わない教育をしていくこと
・多様性の中で対立が起きたら、それを当事者として解決できる力を育てること

だと考えています。

その上で、学校には3つの役割があると思っています。1つ目は「体験を通して自律した人材を育てる場」です。つまり、様々な学び方を通じて、自分で考えて、判断して、決定できる自律した生徒を育てていくことです。2つ目は「多様性の中で民主主義を実践的に学ぶ場」です。3つ目は「リアルに社会と繋がり、未来の社会を創造する場」です。

OECDのラーニングフレームワークにも同じように示されています。教育の最上位概念は、「個人のwell-being」と「社会のwell-being」です。中央に置かれたエージェンシーは、主体性や当事者意識のことを指す言葉だと捉えられます。そして、「責任ある行動を取る力」「対立やジレンマを調停する力」「新しい価値を創造する力」を発揮して、最上位概念へと近づいていくことが求められているのです。

横浜創英中学校・高校の実践と改革のポイント

本校では、以上の考えをもとにして、【自律】【対話】【創造】をキーワードにして、教育目標を作り直しました。これを実現するために、9つのコンピテンシーを示しています。

【自律】PDCA、メタ認知能力、セルフコントロール
【対話】エンパシー、パブリックリレーションズ、コラボレーション
【創造】サイエンスリテラシー、クリティカルシンキング、情報リテラシー

こうしたスキルを身につけるために、生徒たちは徹底して対話を経験します。一例ですが、夏休み明けの1週間は、クラスが異なる生徒たちでチームを作り、24個のミッションを与えてそれについて対話し、1週間後にはその結果をプレゼンします。

また、法政大学や筑波大学など大学との協定もどんどん結び、高校にいながら大学の授業が受けられる仕組みを構築。将来的にはそれを高校の単位に変えることができたり、講義を受けた大学に進んだ場合、その単位を活用できたりするような仕組みにしたいと考えています。

さらに、各界の第一線で活躍している方々を招いて、「世の中はまんざらでもない。大人って結構素敵だよ。僕らはこんな社会課題に目を向けていて、それを解決するためにこんな努力をしてるんだ」といった講演をしていただいています。この取り組みを続けていく中で、「大人なんかになりたくない」と言っている子どもたちの意識がだんだんと変わっていくことを感じています。

とはいえ、本物の改革はこれからだと思っています。学校運営を子どもたちに委ねていくという活動はスタートしたばかりです。例えば、コロナ禍で海外研修が中止になり、国内修学旅行となったのですが、それをすべて子どもたちに渡しました。日程の条件や旅行代理店の紹介などはして、あとは「僕からのミッションは1つだけ。とにかく全員の意見を聞いて、全員を楽しませてください」と伝えました。生徒たちはどうすればそれが実現できるのか考えた結果、1年目は日程も予算も内容も全く違う修学旅行を7プラン作り、リーダーたちがそれを自分の学年にプレゼンして、同行者を募集しました。最大グループは北海道行きのプランで150人くらい。最小グループは広島行きで、最少遂行人数の6人でした。ここで重要なことは、子どもたちからは全く文句が出なかったということです。

改めて申し上げますが、日本の教育では当事者を育てることが重要です。学校教育のあるべき姿は、学校運営を子どもたちに委ねて、対話をして他者と合意していくというプロセスを支援していくことです。現在は、残念ながら、1割の「総合的な学習(探究)の時間」でアクセルを踏みながら、9割の既存の授業でブレーキを踏んでいるような状況です。

これから僕らはもっとアクセルを踏んでいこうと考えています。具体的には、中学1年生から高校3年生まで、個別最適化を最大限具現化したカリキュラムを実施していきます。現在は数学と英語でスタートし、これを全教科に展開して、1600人の生徒がいれば1600通りのカリキュラムがあるという状態を目指します。2025年の4月からはその新カリキュラムを実装していきたいと考えています。

おわりに

実は、これまでお伝えしてきたことを実現すれば、働き方改革も一遍に進みます。トラブルが起こるたびに、先生たちのことが大好きになる子どもたちが増え、保護者からは信頼されるので、仕事がどんどん減っていくんです。お話をしてきた通り、サービスをすればするほど逆恨みされます。学校運営をする上では、 子どもたちを主体にし、保護者も巻き込みながら、結果的に感謝される教育活動をしていくことが肝といえます。

今、日本がやらなければいけないことは、幼児教育の段階から本質的な教育に書き換えていくということです。年齢が上がれば上がるほど、主体性と当事者意識を取り戻すリハビリ期間が必要となります。そのことを覚悟して、学校教育の改革を進めていく必要があると考えています。

委員による意見交換(敬称略)

■横浜創英中学校・高校で進むカリキュラム改革

2025年から大幅に変わるカリキュラムは教育課程特例校制度を活用した仕組みなのでしょうか。ヒントだけでもいただけましたら!(議長・大谷真樹)

特例校にはしない方向で考えています。高校の場合は、中学に比べるとはるかにカリキュラム変更がしやすいと思うんです。学習指導要領においては、3年間で74単位取ればいいとされているので、一部は学年の縛りはあるのの、本来は相当柔軟性があるはずなんです。多くの学校が勝手に学年制を作り、学校で定めた単位が取れなければ留年させるような措置をとっているにすぎません。

現在遂行している改革は、例えば、中学校では1年A組、2年A組、3年A組を1セットにして、同じ時間帯に英語の授業を入れて、中1から中3までが縦割りで学べる仕組みをつくりました。そして、教科書ベースで教わるクラス、ヒアリング・スピーキングなど音声を中心に学ぶクラス、アプリやYouTubeなどから学ぶクラス、そして何から勉強してもいい自由クラスに分けて運営しています。このクラス分けは固定ではなく、生徒たちは色々な教室を自由に回りながら、自分にはどのような勉強方法が合っているかを探っていけるようにしているのです。今後は、リアルタイムに海外と結んで対話ができるクラスや英会話スクールに協力してもらって学ぶクラスなども作っていきたいと考えています。

また、現在、中間・期末テストは、範囲が提示されていて、それを実現するために学び方はなんでもいいと伝えています。そして、2年後にはテストをなくしていこうとも思っています。(工藤勇一 横浜創英中学・高等学校校長)

■教員の役割の転換

私はフリースクールの人間なので、御校において学校を休む子どもたちはいらっしゃるのかという点と、そういった子たちにはどのように対応されているのかが気になりました。(フリースクール全国ネットワーク代表理事 江川和弥)

本校は私立なので、小学校時代に不登校だったお子さんたちが選んでくるケースもあります。そうした時には、入学前から面談をします。その際には、自由に子どもたちが学べる部屋を用意しているということと、中学1年生に関しては学ばない部屋も用意していることを伝えます。子どもが主体的になっていくためには、緊張を緩和する期間が必要です。僕らが伝えているのは、「学ぶか学ばないかは君が決めればいいんだからね」ということ。なかなか従来の教育をしている方にはイメージしにくいかと思うのですが、そう伝えて任せていると、必ず子どもは学びたくなります。自己決定が許される環境になると、子どもは自ずと学びたくなるんです。

今回ご紹介したような改革を進めるためには、ヒドゥンカリキュラム(隠れた教育)といわれている生徒指導観を刷新していくことが欠かせません。「毅然として叱ることが重要」といったことが信じきられている状態では改革は一向に進みません。子どもたちが主体的になっていくためには、専門的なセリフが必要です。例えば、「どうしたの?」「君はどうしたい?」「何か手伝うことはあるかい?」と言った投げかけがそれに当たります。今、僕らが取り組んでいるのは、これを言語化してマニュアル化していくこと。同じように教育改革をしたいという学校、または自治体には、そのノウハウをすべて提供しています。(工藤勇一 横浜創英中学・高等学校校長)

先生方の役割がティーチャーから伴走者に変わっていったと思うのですが、どのような研修などの学びの場を作っていったのでしょうか。(議長・大谷真樹)

OFF JTのような研修が1年目は3・4回ありました。全編講話で進行するのではなく、実際に教員同士で対話する時間を設けたり、自校の問題点を自分の感覚で構わないので書き出したりするような取り組みもしました。教員同士で真逆の価値観が出てきた際には、最上位の目標を定め、対話をするということを体感していきました。1年目の終わりには、僕が教育目標「自律・対話・創造」や9つのコンピテンシーの叩き台を作って、運営委員会にかけて対話しながら練っていくということもしました。

2年目で1番重要だったのは組織改編です。それまでの本校は、2時間以上職員会議をしているような状態でした。決定権をどんどん教員たちに与え、職員会議にかけるのは合意が必要なものだけに絞り、どんなに大きな改善をしても「これはみんなが受け入れる」ということに関しては、 ネットワーク上で共有するという取り決めにしました。

僕は、最上位目標の実現に近づく取り組みであれば、基本的に「ノー」とは言いません。4年間で僕がノーと言ったの4回だけです。紛糾する可能性があったとしても、最終目標を実現するためのアイデアならば、基本的に僕はゴーサインで、職員会議にかけるというルールにしました。そうすると、教員たちが自ら改善したいポイントを出すようになっていきました。職員会議は有効な意思決定の場として機能するようになり、長くても50分を超えなくなりました。さらに議題がなければ職員会議はしませんから、今年度中職員会議を行なったのは、たったの2回だけです。(工藤勇一 横浜創英中学・高等学校校長)

■県単位で教育改革を進めていくには

青森県という単位で、工藤先生にお話いただいた教育を行える学校を増やしていくにはどんな施策を講じていくとよいでしょうか。(讃井廉智 ライフイズテック取締役、最高AI教育責任者(CEAIO))

一言で言うと、モデル校が必要です。そのモデル校には、人事の面において、校長も含めて継続的にコミットできるだけの期間をきちんと与えることは不可欠です。

たとえ教育システムを変えたとしても、「生徒たちは厳しく叱責することで立ち直るんだ」と思い込んでいる教員たちでは改革はすすみません。そのような接し方をされると、子ども達は教員のことを信頼しません。日本中の教員たちは、豊かな人間性と豊かな経験を持ったら素敵な教員になれる信じている。僕は、先生方に「無償の愛情があるかどうかなんて自分に問いかけるな。そんなことはいい。 スキルをちゃんと持って、 子どもたちがきちんと自立できるセリフを持て」と伝えています。本校の教員たちはこれをOJTの中で学んでいるので、だんだんとレベルアップをしていきます。このセリフを身につけていくだけで、学校はめちゃくちゃ安定していきます。青森県のために、この講習を実施してもよいのかもしれませんね。(工藤勇一 横浜創英中学・高等学校校長)

モデル校を作ったら、同じようなに改革を進めている学校同士で学び合える仕組みなどもあるとよいかもしれないと思いました。改革は対話から始めなければいけないのに、それができる体制の学校は少ないですよね。(生重幸恵 特定非営利活動法人スクール・アドバイス・ネットワーク理事長)

自治体によっては、全学校の全教員に集まってもらって話を聞いてもらうような機会を設けいます。オンラインが普及してそれがしやすくなりましたよね。ここでポイントになるのは、僕に興味ある人だけが集まるのではないということです。こうした方々は学校に戻ると、そこには敵がいっぱいいて、さらに対立構造を深めていく……ということが起きがちです。僕は、先生方はみんなが良かれと思って多様な意見を出しているのだから、対立構造を超えていかなければいけないと思っています。そこで、教育委員会には講演には全員を集めてくれとお願いしているのです。オンラインは録画もできるので、後から確認していただくこともできますからね。

中には、僕の話をすんなり受け入れない人もいます。しかし、何も感じないわけではなくて、揺さぶられるような思いは抱きます。「変わりたい」「変わっていかなければいけないのかも」と思った先生方には、2つの道があると伝えます。1つ目は、明日から変わりたかったら、生徒たちに向かって僕は間違えていたと言うということです。これは覚悟が必要でしょう。もう1つは、 2年後、3年後をイメージしながら、今見ている子どもたちへの対応は可能な限り変えながらも、新しく出会う子どもたちに対してはきちんと教育を変えていくという方法です。自身のあり方を変えることは、本人しかできません。

トラブルが起きるたびに、対話して合意形成をし解決できるスキルを蓄積していくと、教員たちは自信をつけていきます。そして、自律のためには日常的に使う言葉が全く違うのだということがわかってくる。すると、子どもたちが変化し、先生たちが好かれていくという好循環が生まれていきます

変化には2年、3年という時間が必要です。しかし、変化のスピードは急激に上がります。土台がきちんとしていれば、いきなり自律的に教員たちが動き始めるのです。校長だけでなく、1人1人の教員が「本校の教育改革はこうです」と自分の言葉で表現できるような展開を数年かけて作っていくことが大事だと思っています。(工藤勇一 横浜創英中学・高等学校校長)

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Written by 教育ライター佐藤智