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令和6年度 【第7回】青森県教育改革有識者会議レポートー教員と学校の学習力を高めるためにー

2024年8月9日に、第7回青森県教育改革有識者会議が開催されました。本会議の前半では京都芸術大学客員教授、NPO学習学協会代表理事の本間正人先生に講演をいただき、その後、委員による意見交換が行われました。

▼第7回会議はこちらの動画でご覧いただけます▼
本記事では内容を一部抜粋して掲載しておりますので、ノーカットでご覧いただける動画もあわせてご活用ください。


本間正人特別委員(京都芸術大学客員教授)講演ー教員と学校の学習力を高めるためにー

教育学から学習学へ

僕は「教育学から学習学へ」と、この32年ずっと言い続けてきました。学習学についてまとめた書籍『100年学習時代』が先日刊行しています。

学習学とは「人間は学習する存在だ」という前提からスタートします。生物学では「人間は考える存在だ」としていますし、経済学では「人間は経済学的合理性に基づいて行動する存在だ」といいます。それに加えて、本来人間は、「学ぶ存在=ホモ・ディスケンスだ」という定義も大いにあり得ると思うのです。

「学校」という言葉は”学ぶ場所”なので、「学」とついています。ところが、校門を入ると、「教室」があって、「教壇」があって、「教師」が「教科書」を使って、各「教科」を教えています。「学校」というけれど、「教える」教師にとってのホームグラウンドになっていないだろうか。本当に児童・生徒・学生の「学ぶ」場になっているだろうか。僕はそんな疑問を抱きました。そして、そもそも教育学が教える側の都合で組み立てられているのではないかと考えるようになりました。

上記の図の長方形は人の人生を表します。横軸が年齢で最も左端が0歳です。縦軸が時刻です。一番上が真夜中の0時、真ん中がお昼の12時、一番下が真夜中の24時。長方形が1人の人の人生を表した時に、教育学の古典的な守備範囲である「学校教育」は、ピンクの楕円形にあたります。年齢は6歳からスタートし、だいたい大学卒業の22歳までで学校教育を終えます。さらに時間軸でいうと、8時半から学校が始まって3時ぐらいまでで終わります。多くの人がこの楕円形の範囲内で学びが終わると考えています。

縦の青いラインは「最終学歴」です。中学校、高校、大学、大学院というラインがあり、これは履歴書に書く際にはずっとついて回ります。「最終学歴」という表現は、「学び終わり」があるという前提の言葉です。僕はこれに対して大きな違和感を覚えています。

教育基本法第1条に定められた1条校である小学校・中学校・高等学校・高等専門学校・短期大学・大学院専門職・大学専門職・大学院、これを卒業すると学歴になります。しかし、それ以外の学びは学歴にカウントされません。もちろん、この楕円形の中の学びも重要ですが、仕事の中でも業界の知識や社会人としての応対、仕事の段取りなどたくさんのことを学びます。履歴書に書いてあるのを見たことがない家事や育児の中でも、本当に多くのことを学んでいくでしょう。金銭換算されない家事歴・育児歴・介護歴などが、いくら経験値として素晴らしくても、学びとしてカウントされていないのが現在の日本の状況です。

本来、貨幣価値に換算されない仕事とはプライスレスであり、尊い営みです。コロナ禍で「対面で誰かと接し、リモートワークではできない仕事」との意味で「エッセンシャルワーカー」という言葉が広がりましたが、そもそも「エッセンシャル」とは「重要な・欠かすことのできない」という意味です。さらに踏み込めば、命を支える仕事がエッセンシャルワークだと定義できます。家事・育児・介護は、間違いなくこうしたエッセンシャルワークに含まれます。

つまり、外で働いていても家の中で働いていても、「学び終わり」はありません。言葉を覚えるのも学習ですし、仕事も、人間生活も、家庭生活も、スポーツも、趣味も、すべて学習です。最終学歴も大切ですが、「最新学習歴の更新」がさらに重要ではないかと考えています。

学習学での教師の役割とは

学校という社会装置が幅を利かせるようになって、「学ぶこと=教わること」という定義付けが強まっているのではないかと考えています。下記の図では、「教育学」と「学習学」を縦軸に置き、「指導者」と「学習者」を横軸に置いて対比しました。「教育学」では教員をティーチャーと呼び、ティーチングをします。「講義形式で知識を教える」という特徴があります。人口が多い時には、講義形式の一斉授業は非常に合理的で効率的な方法でした。正解があって、試験があって、問題を作った人が採点して評価して、そして順位が付けられるという形式です。

しかし現在は、加速度的にEラーニングにとってかわられています。Eラーニングには、「同期・非同期」という種類があり、現在進行形でzoomに参加している時は「同期」で、「スタディサプリ」や「すらら」など自分の好きな時間に学習者がスマホやタブレットで学ぶものは「非同期」といいます。今後、Eラーニングでの学習はさらに進み、「普通に授業を受けるよりも、全国選りすぐりの先生のEラーニングを観たほうがいい」「芸人のようにおもしろおかしく伝えてくれる人から学びたい」というニーズが当然出てくるでしょう。また、先生が1組2組3組4組……と同じ授業を何度も行う必要性もなくなるはずです。

このティーチングには大きな副作用が存在します。それは学習者が受け身で教わることに慣れてしまうことです。下記の表には、「Teachee」と書いてありますが、英語の動詞の語尾に「ee」がつくと、「◯◯される人」という意味になります。つまり、「Teaching」を受ける人は「Teachee」になってしまうのです。

結果、自ら主体的に学ぶ「アクティブ・ラーナー度」が、学校教育の中で下がってきてしまったという反省が文科省の中にもありました。そのため、4~5年前からアクティブ・ラーニングの重要性が説かれ、現在では「主体的・対話的で深い学び」という表現になって広がっています。

繰り返しになりますが、本来は誰もがホモ・ディスケンスであるはずです。赤ちゃんはすぐに周りのものに触ったり手を伸ばしたりします。この時点から学習行動は始まっています。学習は人間にとっての本能であり、生物にとって進化の過程の中での重要なプロセスです。

学習学では子どもたちはアクティブ・ラーナーに育っていきます。ティーチングがゼロになるわけではありませんが、個別最適な学びが重視され、一人一人の強み・持ち味・可能性を引き出していくコーチングに重きが置かれるようになります。教え込むのがティーチング、引き出すのがコーチングです。長年ティーチャーをしてきた人は、引き出すことよりも教え込むことの方が得意になっています。しかし、「勉強しろ」といった指示・命令で相手の状況を変えることには限界があります。命令で人が動くのは軍隊だけです。軍隊は命がけの極限状態にあり、指示を無視すれば、自分や他者の生命を危険に晒してしまいます。その緊迫感から服従が生まれます。しかし、平和な時代、平和な社会、平和の組織の中では、命令は必ずしも有効ではありません。何らかのレベルの主体性を引き出さなければ人は動かないということがコーチングの基礎理論です。

学習学においては先生は「ファシリテーション」も担います。ファシリテーターは1対多の集合学習の中で、学習者の学びを促進する役割です。ファシリテーションとは、ラテン語の「セ・ファシーユ」に由来します。これは「It’s easy.」、つまり「やさしい」という意味です。ファシリテーションは、放っておくと学び合いがうまく進行しない時に、介在して、触媒のように、学び合いをやさしくする価値を持っています。今後は、ティーチャー・コーチ・ファシリテーターという3つの機能を先生方が担っていくことになります。

コーチやファシリテーターについては、教育現場から「そんなことはやったことないです」「難しいです」といった苦手意識の声が聞こえてくることもあります。それに対して僕は、「鉛筆を数えてみてください」とお伝えするんです。「一本、二本、三本、四本、五本、六本……」と漢字で書くとすべて「本」ですが、一本は「ぽん」、2本は「ほん」、3本は「ぼん」と規則性なく変化します。これを習得することは、私が教えている留学生にとっては至難の業です。自分自身が意識していなくとも、学習行動は行われており、場数を踏めば教わってないことも自然に学んでいくことができます。一方で、練習不足なことは、心底苦手意識を持ちます。言語や車の運転などは、典型的な例でしょう。

学びで大事なことは、インプットとアウトプットが適切なバランンスになっていることでしょう。インプット、インプット、インプット……の状態は、呼吸でいうと「吸って」「吸って」「吸って」といわれているようなものです。本来は、吸う量と吐く量がイコールなのが望ましい。それが学習の理想形ではないかと思っています。僕は日々そんなことを思っているので、次回は是非一方通行の講演ではなく、双方向性があったり五感を使ったりする教員研修をさせていただければ幸いです。

「登校選択」か「在宅選択」かをフラットに選ぶ

全国では、小学生の8%、中学生の13%が不登校だといわれています。不登校というと、子ども達に問題があるように聞こえますが、これは旧態依然とした学校に合わない子たちの悲鳴だと捉えるべきではないでしょうか。調査で出ている数字なので実数はもっと多いですし、息苦しさを感じている子まで含めたらかなりの割合にのぼるでしょう。

これからは、学校が合っている子はそのまま通う、「登校選択」をする。学校は合わないなと思っている子は、「不登校」という言葉をやめて、「在宅選択」と呼ぶようにしていくのはいかがでしょう。同列の選択肢として、どちらでも選べるようにしていくのです。

また、オルタナティブスクールは学費が高く、首都圏に集中しています。ここをバランスよく配置されるような仕組みにしていきたいとも考えています。

ライフロング、ワイド、ディープな学び

■「Life-long」
僕は「Life-long、Life-wide、Life-deep」な学びが重要だと考えています。100年の人生という意味で、「Life-long」はわかりやすいでしょう。生まれてから最期の時まで、人間は長く学び続ける存在です。

「Life-long」には、「人生の全ての一瞬が学びである」という意味も込められています。学習には「適応と開花」という2つの側面があります。人間は環境の中で生きていて、その環境は常に変化し続けます。その変化に生物は適応していきます。例えば、温度が変われば汗が出て、汗が蒸散して気化熱で表面の体温を下げます。生体反応ではありますが、超広い意味ではこれも学習の一部ではないかと思います。「さあ、これが学びだ」と思っていなくとも、外界との間で情報の交流がある限り、そこには一瞬一瞬の学習行動が発生していると捉えることができます。意識的な学習ではないかもしれないけれど、無意識的な学習は常に行われているのです。

■「Life-wide」
何をしていても、どんな時でも、どんな場所でも学べるという考え方が「Life-wide」です。学びは学校だけにとどまるものではありません。人はあらゆることから学んでいるのに、22歳時点や18歳時点の教科の点数が人生の長い時間に影響を及ぼすことはバランスが悪いと、僕は考えています。多くの場合、組織の中で「あの人は仕事ができる」という評価は、18歳時点の大学入試の成績には由来せず、むしろその後に学び続けてき経験値によって得られることが多いように感じます。経験の中で得た知識・技能・態度・心構えなど、そういったものが「あの人は素晴らしい」という評価につながっていくのです。

求められる能力は時代によって変わっていきます。これまで重視されてきた教科学力はAIに代替される可能性が極めて高い。知識が全く不必要になるわけではありませんが、相対的な重要性は低くなっていく時代がもうすでに来ています。

■「Life-deep」
「Life-deep」とは、一瞬に全人生が移り込むという意味です。人柄や人となりは、その人の一挙手一投足に表れます。

加えて、一瞬で人生が激変することもあり得ます。「あの人との出会いで私の人生が変わった」という体験をお持ちの方はたくさんいらっしゃると思います。つまり、一瞬の重みは人や場面によって全く異なるのです。

この「人生の時間には密度の差がある」ということは大前提です。しかし、学校教育では基本的に全ての人にとって、”1年は1年”で「時間は均質に流れる」前提で構成されています。学校に所属する期間も、飛び級など一部の例外的な方を除いて、小学校は6年間、中学校は3年間、高校は3年間、大学は4年間で構成されています。

人生の一瞬の重みや深さは、学びにおいてとても重要です。この考え方を、僕は「Life-deep-Learning(ライフ・ディープ・ラーニング)」と呼んでいます。100年学習時代においては、全ての人にとって均質な時間が流れるのではなく、一人一人にとって異なる流れ方をすることが大前提になります。そして、学校だけではなくて、あらゆる場所において、一瞬一瞬で起こっている学びを視野に入れる必要があるのです。

学校教育の呪縛

日本の学校教育には素晴らしいこともたくさんあります。特に基礎学力に関しては、人口1億人の単位でこれだけの高いレベルを維持し続けられていることは凄まじい。現場の先生方のご努力・ご尽力には本当に感謝しかありません。しかし、その一方で弊害も生じてしまっています。

呪縛①正解が存在する
学校の中では、「出題者が決めた正解との一致度」が「正解」だ定義されています。しかし、「原子は宇宙の中で最も小さな粒子である。マルかバツか?」という問いは、昔はマルでしたが今ではバツに変わりました。つまり、「正解」は常に変わっていくのです。しかし、教科書の中ではまるで知識が普遍的なもののように扱われています。本来は「すべて仮説」「すべて仮置き」という前提を置かなければいけないくらいだと僕は思います。

「正解が存在する」という価値観を植え付けられていると、就職した後に困ります。「課長、この仕事はこうすばいいですか」「これで間違っていないですか」「僕のやり方で大丈夫ですか」と”間違ってはいけない”という強烈な強迫観念が押し寄せ、「教えて教えて症候群」を発症するからです。仕事にも、子育てにも、家事にも、定められた正解は存在しません。服に似合う・似合わないがあるように、その人にとって一番似合った答えを見つけていくだけです。

これを文科省では「個別最適な学び」として今、重視しています。学習進度や個性に合わせた学びを重視する考え方ですが、ここに正解が人の数だけある。いや、一人一人のその一瞬一瞬に存在する、ということも付け加えていきたいです。すべての人の、すべての時間に共通する正解など、存在しないのです。

呪縛②問題は一人で解決する
問題は一人で解決する呪縛の典型例が、ペーパーテストです。テスト中、「この問題、難しいから教えて」と言ったら、カンニングと言われて罰せられます。しかし、社会に出たら一人で解決できる問題や一人でなんとかなることなど、ほとんど存在しません他者との協力関係の中で、仕事は回ります。むしろ、一人で抱え込んでいたらうまくいきません。「一人で解決しなければならない」という固定観念を植え付けられ、誰にも相談できず、一人で抱え込み、メンタルヘルスでダウンするような若者も多くいます。日本において10代・20代の死亡率の第1位が自殺であることには、そうした背景も影響しているでしょう。これは先生方の責任ではなく、仕組みの問題だと考えています。

現在は、「協働的な学び」が重視され、PBL(プロジェクト・ベースド・ラーニング)や探究学習などチームで取り組む学びも広がっています。こうした取組から、「問題はみんなで解決するものである」という理解を広げていくことが重要でしょう。

呪縛③他者からの評価で順位がつけられる
「ウェルビーイング」という言葉は、すべての人にとっての幸福は存在しないということを知らしめてくれています。みんなと一緒に活発に過ごすことが幸せな人もいれば、1人の空間でコツコツと過ごすことが好きな人もいますし、少人数で静かに話すことに幸せを感じる人もいます。人によって幸せの価値観は違うのです。

一方で、学校の教科学習における評価は完全に他者評価で、自己評価の介在する余地はほとんどありません。京都芸術大学では作品についての自己評価を自分でつけさせ、それを自身で「私の作品の強みはこういうところです」とプレゼンテーションして発表してもらいますが、こうした機会は学校現場ではかなり少ないでしょう。他者からの評価をあまりにも気にしすぎる背景には、学校という仕組みの中で植え付けられている「忖度」や「同調圧力」があると僕は考えています。

呪縛④努力・出席が尊ばれ、休み・遊びは評価されない
「休んではいけない」という価値観が育休取得率や年休取得率の低さにつながっているのではないかと考えています。休みを取ることに後ろめたさを感じてしまうのです。しかし、人間は遊んでいる時が最も集中力が高く、脳が活性化しています。日本では努力が尊ばれるきらいがありますが、好きなことは努力に勝るんです。努力が尊ばれる背景には、「能力の均質性」が前提にあります。つまり、努力をするとパフォーマンスが上がるという考え方は、個々人のベースラインが同列であれば「1時間頑張るとこれだけできるようになるはず」とパフォーマンスが見越せます。しかし、人間は機械ではないので、個人差は大きくありますし、1時間多く仕事をしたところで集中していなければ効率が悪く、パフォーマンスが下がることすらあります。むしろ、多く時間を取ることが逆効果になることだってあり得るのです。スタートラインは全員違うし、強みも違う。だから、それらを評価して、時間の密度の違いも理解した上で多様な時間の使い方をしていけるとよいのではないでしょうか。

呪縛⑤興味の持てないことも忍耐して続けなければならない
10代・20代前半の若くて一番活発な時期を、自分の好きなことを我慢して、強みを抑制して過ごすのはもったいないことだと思います。もし、学校教育の中で一番伸びるのが「忍耐力」だとしたら、先生方だって悲しいはずです。

100年学習時代は、何歳からでも学びを取り戻すことができます。今、目の前にある最も興味のある方向に向かい、その後に関心が湧いてきたら他のことを自ら学ぶこともできるんです。ちなみに、京都芸術大学には96歳の卒業生がいます。学びは一生涯続くのです。

教員と学校の学習力を高めるために

①教員が探究活動を楽しむ
教員と学校の学習力を高めるためには、教員が探究活動を楽しむことが欠かせません。もしかしたら、学校の先生は楽しんではいけないと思っているかもしれませんが、楽しむことはとても大事です。そもそも学びは楽しいものであるはずなので、それに伴走する先生も楽しんだほうがいいですよね。

②教員間の学び合いを促す
先生方の研修は一方通行のレクチャーが多く、もっとグループワークや体験学習などを増やしていくことが重要だと感じます。また、先生間で交流を持ちながら、フィードバックをし合って、楽しく学び合うチーム学習をしていけるとよいでしょう。

③保護者・地域リソースの活用
木村泰子先生が大阪市立大空小学校で、保護者の方や地域の方を巻き込んだ本当の意味でのインクルーシブな学校を実現されました。お手本はあそこにあります。学校の敷居を下げていくことで、保護者・地域のリソースの活用をしていくことができます。

④加点主義・適材適所の人事評価制度
教育行政に関わる部分ですが、減点主義がまかり通っていると、不祥事は隠蔽され、問題は先送りするようになります。そこには、挑戦はしないことが当たり前の文化が生まれてしまいます。ビジョンを提示できて、それを共有できる若くして適性のある校長を抜擢できるような人事制度が非常に重要だと考えています。

⑤挑戦が大切。失敗ではなく「未成功」
挑戦がイノベーションの源泉であることは間違いありません。だから「失敗という言葉を使うのはやめよう」というのが僕の提案です。失敗ではなく、「未成功」です。前向きにチャレンジすることこそが尊く、ある時点では成功とはいえなかったとしても、その後はどうなるかわかりません。だから、それは「未成功」と呼んだ方が適切です。質の高い「未成功」を積み重ねていくことが、成功への道です。

⑥「トライアンドエラー」ではなく「Try and Learn」
トライが動詞、エラーが名詞の間違った和製英語「トライアンドエラー」がはびこっています。また、日本語の「試行錯誤」は挑戦したら必ず錯誤、いわゆる失敗がついてくるような固定概念を植え付けます。僕はこれも払拭したい。繰り返しますが、うまくいかなかったとしても「未成功」です。必ずそこには、気づき・発見・学びがあるんです。だから、「Try and Learn」としていくのがいいでしょう。

こうしたことを100年学習時代には訴えていきたいですし、先生方と共有し、22世紀を見通して一緒に学校を作っていきたいと思っています。

委員による意見交換(敬称略)

■なぜ改革は実装されないのか

教育の転換はこれまでも提唱され続けながら、実装されていないことが多く、その理由は何だろうと考えていました。もしかしたら、「一方通行の授業を求めてる人もいるのかもしれない」ということや、学校の構造的にそうならざるを得ない状況があるのかなど、さまざまな背景を検討していました。(産業能率大学経営学部教授 藤岡慎二)

1つ目が、慣れです。一斉授業を自分たちも受けてきたし、そこに手堅さを感じているということでしょう。2つ目は、現状それが都合がいいということだろうと思います。おとなしくいい子で育ってくれた方が都合がいい大人たちはたくさんいます。でも、立場が上とされている人たちのいうことを唯々諾々と聞いている習慣を植えつけられることは、すごく危険なことだと僕は思います。権力を持っている人を疑ってかかる、建設的な疑問を持つ姿勢を学校でも養っていかなければいけないのではないでしょうか。(京都芸術大学客員教授 本間正人)

なぜ実装できないかは僕自身も考え続けている疑問です。おそらく全国の教育改革者が思っていることではないでしょうか。僕は「見えない影に、勝手にみんな怯えているのではないか」と思うんです。「こうあるべきだ」とか「こうせねばならぬ」と。結果的に、前例・慣習から「これをやってはいけないのではないか」と勘ぐり、同じことを繰り返しているような状況があるような気がしています。(議長 大谷真樹)

■ライフキャリアを履歴書に

「PTA役員を経験しました」「町内会の役員をやっています」など、人はジョブキャリアではないさまざまなライフキャリアを持っています。しかし、現在は学歴と職歴だけの履歴書になってしまっている。そこに大きな課題があるのではないかと思っているんです。(副議長 森万喜子)

賃金労働に関しては書くけれども、それ以外書いていないのが現状ですよね。どこかの企業やNPOがオリジナルの履歴書を作ってもいいのではないでしょうか。そうしたら、「キャリアにブランクができてしまった」なんて言うことはなくなります。

子育てはマルチタスクを抱えながら効率的に仕事をこなす力も付きますし、「子どもは親の思った通りにはならない」ということも学びます。しかし、考えてみると、あらゆる人間関係は思った通りにはならないんです。上司は部下の思った通りにはならないし、部下は上司の思った通りにはなりません。「思った通りにならない」上で、相手とのうまいコミュニケーションの取り方を学んでいくのが子育てではないでしょうか。子育てにこんなにも大きな学びがあるということに気づいていない方がすごく多いと思うので、きちんと理解を広げていきたいです。

「僕たちは微力だけれど無力ではない」というNPO法人テラ・ルネッサンスの鬼丸昌也さんの言葉を座右の銘としています。微力ですが、これからもメッセージを発信し続けようとに思っています。(京都芸術大学客員教授 本間正人)

キャリア教育コーディネーターのプログラムの中でも、家事・育児・介護などをキャリアとして位置付けていけるとよいのではないかと考えていました。私も25年間この活動を続けていく中で、鬼丸さんの「微力だけれど無力ではない」という言葉は本当に胸に響き、励まされています。

青森県ではもっと多くの方と膝を突き合わせて話したいです。コミュニケーションを取って、1人でも2人でもそのエリアで頑張ってる人たちを励ましていくことで、青森が変わっていくのではないでしょうか。青森はものすごくいいポテンシャルを持っているのに、それに気づいていない方もたくさんいます。少子高齢化が進んで3番目になくなる県だといわれているような青森のイメージから脱して、変えていこうと動く方がどんどんと出てくると、この会議を開催している甲斐があると思います。(特定非営利活動法人スクール・アドバイス・ネットワーク理事長 生重幸恵)

■先生たちが探究を楽しむアプローチ

小学校は「総合的な学習の時間」に打ち込んでいる学校が多いのですが、中学校になるとパタッと止まるという課題意識を聞くことが多いです。中学校の先生方への何かアドバイスがあればお聞きしたいです。(弘前大学教育学部教職実践専攻・教職大学院教授 三戸延聖)

GIGAスクールでせっかくタブレットやノートブックPCが配られたのでこの活用を図っていただくことがポイントになるでしょう。書籍では宝仙学園小学校の吉金佳能先生の『小学校理科 探究的な学びのつくり方』は参考になると思います。小学生向けの実践が書かれていますが、中学校の先生方にもとても役に立ちます。仮説を立てて、検証して、論文に書かせるところまで学びを実現なさっているんです。

また、「Find!アクティブラーナー」というサイトにはさまざまな授業動画が出ているので参考になるのではないでしょうか。(京都芸術大学客員教授 本間正人)

大正大学の浦崎太郎先生は、「総合的な探究の時間」の中では、「基礎学力」と「自分らしさや興味関心」「社会にどう貢献していくか(進路)」の3つが重なっていくと言っていました。だから、本間先生がおっしゃっていた通りで、「忍耐して続けなくては」とか「苦手を克服して好きを諦める」という時代ではないのだと思うんです。自分の好きなこと・教科での学び・誰かの役に立つといった3つの丸が重なることこそが、探究的な学びですよね。学校はそこを大事にしていけるといいなと感じていました。(副議長 森万喜子)

「失われた30年」は大人が過去の成功体験にとらわれて、「あの時はあれでうまくいった」ということを引きずり続けることによって生まれました。現状、世界がこれだけ変わっているのに、そこを見ようともしなかった。「JAPAN as No.1.」ではなく「JAPAN was NO.1」だけれど、それでも「as」だと信じ続けている人が上の世代に多すぎることが問題だったのだと思います。ちなみに、そういう人たちは往々にして最終学歴を重視します。

これから社会を変えていくためには、スタートアップで新たなビジネスを作り上げている人、NPOやソーシャルビジネスで新しい社会貢献の道を拓いている人、オルタナティブスクールで既存の学校に合わなかった子どもたちに学び合いの場を提供している人たちなどで、連帯の輪を広げていくことがすごく大切だと思っています。(京都芸術大学客員教授 本間正人)

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